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ガイドさんと記念写真

20080226154625
枕崎の隣 坊津はなんと数百年前から 篤姫に出てくる 近衛家とかかわりがあったことをごぞんじですか?
日本三津と称されてきた薩摩半島の南端坊津の海岸に近いところに近衛屋敷があります。これは近衛家第19代近衛信尹が2年余り住んでいた屋敷跡です。
近衛信尹は、1580年に内大臣、1585年には左大臣にあった人ですが、ときの天下人であった豊臣秀吉に付け込まれ、関白の座を横取りされ、1592年には秀吉に対する反発から左大臣を辞します。さらに、秀吉の朝鮮出兵が始まると京都を出奔し九州名護屋に行き、朝鮮渡海を秀吉に訴えます。秀吉に対する当てこすりのような気がします。しかし秀吉は認めません。秀吉は後陽成天皇に取り成しを依頼し、後陽成天皇から九州薩摩の地へと配流が決定。しばらく隠棲しておけという意味あいでもあったろうと推測します。
 このようにして、近衛家の御曹司がはるばる薩摩の辺鄙な港町に配流されることになったわけです。配流とは言っても、主従50人ほども従えての優雅な隠遁生活であったようです。
 もともとこの坊津に近衛家の御曹司が配流される理由も、もともとこの地が近衛家の荘園、しかも中国との交易基地としての経済的拠点であったところだからです。
いわば、配流とは言っても、自分の会社の支店でほとぼりが冷めるまで隠棲しておけ、というくらいのものです。近衛家にとって薩摩の地は荘園の領家という立場で、島津氏は現地支配人という関係です。
 ときの島津氏当主であった島津義久らも相当気を使ったようで、しばしば鹿児島に招待し歓待しています。本社の勝気な御曹司の接待という感じだったのでしょう。
島津氏と近衛家とは平安時代からの関係で強く結ばれていて、この関係は江戸時代の倒幕にまで影を落としていきます。
鹿児島県坊津町は、

 今から1400年前の583年,百済の僧日羅が仏教弘布のため坊津を訪れ坊舎を建てた。これが一乗院の始まりである。以来,約1000年にわたり貿易が栄え,宗教文化の花が咲き誇り,坊津が繁華を極めるのである。坊津の名称もこの坊舎に由来するといわれる。
 この間,坊津は伊勢の安濃津(三重県津市),筑前の博多津(福岡県福岡市)とともに日本三津のひとつとうたわれ,また唐の港・入唐道とも呼ばれ,遣唐使船の発着港として内外にその名をとどろかせた。
 平安朝の末,藤原氏の全盛時代は近衛家の所領,島津家の荘として中央に深いつながりをもち,朝廷の公用港として重視され,足利時代に入ると,坊津を門戸として中国・琉球・南方諸国との貿易も盛んに行われた。
 しかし,1635年(寛永12年),江戸幕府が貿易港を長崎に限ったため,坊津はだんだん衰微していった
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